昭和42年08月04日 朝の御理解
昨日、一昨日、夏の祈願祭で御座いましたから、その前日、お供え物を買いに久留米にやらせて頂きました。○○さんの車が来て下さいましたので、半日掛りで長男と長女と私と新治さんと四人で参りました訳で御座いますが。私共が買物に行くのが分かっていましたので、久留米の佐田さんが箱類を少し、お供え物を入れる箱ね、乾物屋さん、卸屋さんですから、沢山ありますから、二つ三つ相談しておきました。
そこで前々から寄って頂く様にとの事で、そして親先生がみえるなら寄って頂いて、今度お神様を奉斎されるので。それでここにこういう神様を奉斎して、若先生が今度ご本部に参拝される時に買うて来て頂く様にと、どう言う風にお祀りしたら良いか、どの位のお社を買ったら良いのかそんな事を見て頂きたいので、ぜひ寄って頂きたいと言うので、ちょっと寄る積りでしたが。
あんまり一家中でサービスされますので、一時間位おりましたでしょうか、おじいちゃんは信心されませんが、皆さん信心なさいます。あちらは、お店だけでも110年続いた店ですから、本家の佐田与さんですから去年でしたかね、110年祭というのがありました。言えば老舗です。ですからたいした大きな家ではありません、けれども矢張り調度品の一つから特に私、感心しました事は、御仏壇。
見事な御仏壇、成る程こうゆう素晴らしい御仏壇が安置してあるなら、あちらのおじいちゃんが金光様、金光様と言わんでもよかろうと思いました。もう前に座らなければおられんもん。あれだけ綺麗にキチッとしてある。しかも品物がいいですから、それがお掃除が行き届いていますからね。日のうちに暇があれば何辺でも座りたいという感じです。皆さん、是は床の間にお祀りする神様が、あんまり神様が貧相過ぎる。是では、どうでも佐田さん、神様の部屋を一部屋頂けるまで辛抱しなさいと申しました。
私共もそう思っています。この頃長年続いてきた組うちですから、月一回づつは、お坊さんが見える。ここで言えば、信心共励会というものが作られてね、それ位熱心な仏教帰依者なのです。その最近は、第一嫁さんが、おばあちゃんが、孫達までが椛目椛目と言いますもんで、最近ではおじいちゃんが金光様の信心が、段々分かる様になりました。私が参りました時などの、もう非常に喜んで、もう挨拶に見えられましたけれども、折角例えば神様でも奉斎するならね。
本当にもう日のうち何回か座らねばおられぬ位な、神様をお祀りしなければいけませんね。お掃除も行き届かなければいけません。私は思いました。やっぱり何百年と伝統を持った仏教で御座いますから飾りと申しましょうかね、お飾り一つでももう御仏壇の前に座るだけでも、心が清まるだろうと御先祖様にお礼申し上げる、気持ちが起って来るだろうという気が致しましたが。
私共お道の信奉者である、信奉者が、銘々家族、家に神様を奉斎申し上げたら、本当に御神前に生き生きとしてお供え物がして御座いませんね。お掃除が行き届いて、御榊も青々と水も取り替えてあって、本当に日のうち何辺でも御祈念がしたい位な雰囲気を作らなければいけないと思う。同時に私が感心した事は、最近生活をうんぜいと言う言葉がありますね。即ち、生活を楽しむと云う事。
あちらに行った人はご存知と思いますが、一部屋一部屋が、大きな立派な家というのではありませんが、神経が行き届いた、便所に参りましても、楽しい様な感じですね。もう炊事場にまいりましても、流しのところにまいりましても、まあ楽しい感じ。庭なんかでも広いことはありませんが、行き届いた植木、もう草一本ないお庭。本当に生活を楽しんでおられるという感じ。
応接間に入りましたら、もう昔の家柄ですから、調度品でも見事な物が置いてある。それが鏡の様に皆んな行き届いている。どんなに素晴らしい、いい物のがありましても、キチンとしてなければ骨董屋の様ですね。それが本当に側に行って楽しいという感じです。 私もね、お互い信心もですね。本当に信心さして頂いている事が楽しい、所謂信心をエンジョイ、と言う風に申してもよいと思う。
そういう信心が出来る様に、工夫しなければいけないと思いました。それは拝む。神様に頼むだけと言った様な物でなくて。本当に金光様の信奉者である私共が、信心を楽しんでおる。家族あげて金光様、金光様と帰依して行く所の喜びと言った物が、もう家庭の中にこうムードが一杯だと言う様な、金光様は頼む神様と言った様な物でなくて信心の教えがですね、もうどこの隅にも行き渡って居る様な、そういうおかげを頂きたいと思うですね。どうでしょうか。信心が楽しい。朝参りが楽しい。
朝晩の御祈念をさして貰う。家族中で御神前に出て御祈念をさして貰う。( ? )お供えさして貰うのが楽しい。そういっても暇がなければ余裕がなければ出来る事ではありませんよ。決してそうではない。暇があるからといって、家の中で片付いていると言う所ばかりではないですよ。もう暇があっても雑然として例えば家はかたぶいております。お庭は草ぼうぼうね。暇があるから暇がないからではない心掛けです。
余裕が出来なければ出来ん。生活を楽しみながら、私は日々を生活する様に、信心を楽しみながら一家中の者が信心さして貰えば、ここにおかげが集まって来ん筈がないです。それには矢張り工夫がいります。私が何故その様な事を申しますかと言いますと、信心にはどうしても、三代金光様が仰る。さらなるものが必要なのですね。部屋の中でも、例えば掛け軸一つでも、置物でも、綺麗にしてあるだけでなく、次に新しい物と取り替えられている。部屋に入ったら、何時も気分が変わる
それは応接間だけでなく、どの部屋にいっても、そういう例えば、気分が覆い尽くしているという様に生活をエンジョイする為に、遊び半分ではいけません。そういう一つの工夫、そういう細かい所まで神経が行き届いていなければ、私は出来ないと思う。信心も同じ。自分はこの頃、信心がだれておる。何とも眠気の付いた様な信心、だらっとしておる。心が生き生きとして合楽の方に向いて来ない。
そういう時には、矢張り工夫しなければいけん。そういう信心が何十年続いても、うだつがあがらん。この頃ある商売を始めた人、お参りしてきて、もう本当にお願いしてから毎日新しいお客さんが増えましてから、おかげ頂いてと生き生きとしたお届けがありをる。又その人が昨日お参りして見えて、先生この頃は、新しいお客さんが一向に減ってしまいました。というお届けがありました。で、お願いして下さいと。
だから、私がもうお願いだけではいかん。あなたが始めにお参りして、生き生きとして楽しくお参りして来た時には、本当にこの暑いのに、この梅雨のうちにやっぱり新しいお客さんが絶えなかったでしょうが。もう梅雨のうちは遊びの、と言っていた。暑い時は、どうも夏枯れと言っていたのがああして生き生きとして、お参りが出来ている時には、お客さんもあったでしょうが。
といって毎日お参りしているから、生き生きとしたお参りが出来ているとは、言えないのですから、お参りのあり方にも、この頃どおも眠気の方が強い。朝のお参りがしるしく成って来た。これ何か、確かに生き生きとしたのが欠けているのですから、そういう信心がザートなんとはなしに続いているというのであっては、何十年続いても何と云う事はありません。是は本当に信心をえんじょ、すると云う事なのです。信心が信心でない。楽しみの為に、私共は工夫がいるのです。
私の居室の前にあるでしょうが。お手洗いと洗面所がありますでしょう。洗面所に小さい弱い花ですが、金盞花によく似た柿色の花が一輪さしてあるのですよね。あれは、すぐ枯れてしまう。所があれを見た時に、ちょっと考えた事があったんです、日に二回、三回かえる事があります。根が臭くなってどろどろになっている。日に三回かえても、中の水がお湯の様になっている。もうどうでも十日位もっている。生き生きとした花を楽しむ為には、それだけの工夫がいるのですよ。
皆さんの心の中に折角信心さして頂くなら生き生きとした、私は今朝からも例えば、御大祭前に長々と祝詞をお読みになります。もう素晴らしい文句が綴られていますでも神様が受けて下さらなかったら、駄目なんですよ実を言うとですから例えば私なんか、月次祭でも三分・五分も座らんでしょうね。あれだけのお祭りを仕えさせて貰うのに、御神前にあれだけしか座りなさらん。
あれでお取り次して下さったのだろうかと思っている。どうぞ私は神様が万事オーケイと言わっしゃるまでは、私は立たんです。それで三分間でも二分間でもいいではないですか。神様万事よろしくと、承知したと。万事オーケイ願った事だけではないんです、神様が万事オーケイして下さる、これが通えばいいんです。朝の御祈念から眠くなる。もう絶対生き生きとした物の欠げている証拠です。
それでは成る程花を楽しむ事は出来ますけれど、十日も、もてぬ花が一日でしおれてしまいます。二日で枯れてしまうです。工夫しないからですよ。信心の工夫をしないからですよ。もう分かっている。何を分かっておるか。分かっておると云う事は、神様の有難さを分かる事は信心は。十年前におかげを頂いて有難かった事が分かっていたが、もう十年経てば有難くないでしょうが。
こんにちがそれこそ冷たいし、信心でも手を差し入れた時もう、とにかく冷たい実感というものが、こちらになからなければ駄目なのです。自分勝手な信心をエンジョイする事は出来ません。楽しむ事は出来ません、ですから一ヵ月かに参っている内参りたくなるのです。ヶ月ね。どうかおかげを頂かなければいけません。所謂工夫しなければいけません。話を聞くだけが能ではない。
我心からも練りだせという事は、信心の工夫をせよと云う事です。何故工夫をするか。生き生きとした有難い心が頂けれる為、本当に信心を有難く楽しませて頂く為に工夫をするのです。何の為その生き生きとした心を持ってするならばね、私は月次祭の御祈念の様に万事よろしくお願いしますといえば、万事オーケイ、万事承知したと言って下さる。もうここに万事の事ですから、あれこれ願わんでもいいでしょうが。
神様がそれでもあれこれ取立て、願わん事も沢山ありますけれどね。そうなんですよ。ですから拝む事ばかり拝んでも、生き生きとした心で拝まなければ駄目なのです。宅の神様のお掃除が行き届いているかどうか。何時も、お花は生き生きと青々として奉て祀られておるかどうか。日の内に何回も御神前の前に座りたいものがあるか、どうか。私はこちらに参りまして初めて、三、四日前椛目に寄せて貰ました。
寄せて貰った時、善導寺にお参りさせて貰うて帰りに、バス代が足りなかっただから椛目で降りなければ、仕方がない椛目で降りて、こちらに来て始めてあちらに参りました、もう夕方の五時頃でしたか、お掃除が出来ておりました。本当に懐かしい感じでした。御神前に出らして貰うて綺麗に掃除がしてあってね。御三宝二、三台ではありましたけれども、お供えがしてある。御神燈がついておる有難いなぁ有難いなぁと思う。
あれは結局妹の信心なのです。あれだけの言うなら、親子二人で住んでいますから、掃除も中々大変だろう。勤めに出ておりますから、本当に私は何も言う事はないなぁと私は思う。暇がなければ出来んと言う事は絶対にない。工夫しなければいけません。いかに暇があっても、庭には草がぼうぼう、部屋の中は雑然としている。そういう中に生活を楽しもうといっても楽しめる筈がない。御神前が言わばかげた様にしていて。
信心を楽しもうと思ってもおかげが頂ける筈がないね。もう信心に絶対必要なものは、真に有難たいと思う心と仰るように真に有難いというのは、生き生きとした心の中から、湧いて来る清水の様に、何とはなしに冷たい水が湧いて来る様に、心の中に喜びが湧いて来る様な。おかげを頂かして貰う為のそれが最近かげておる。なくなったそれには、ひと工夫しなければいけないのではないのだろうか。一日しかもてない二日しかもてない花でも、私の工夫いかんで。
今朝方と私かえって参りましたが、まだ花が生き生きとして一番下の葉が枯れてつみとって来ましたが、又水を換えて何日もてるだろうか。やっぱり工夫なのです。そういう工夫をなさらねばいけません。話を聞くだけが能ではない。御祈念をするだけが能ではない。お参りをするだけが能ではない。いわゆる我が心から練り出せ。そういう工夫というものが楽しいものに成って来る。楽しみながらしかも神様が万事オーケイして下さるような、おかげが受けられる道なのです。
どうぞ。